『ヒカル』


佐為がいなくなってしばらくして、加賀はひっそりと、ヒカル改造計画をスタートさせた。
もちろん、ヒカル本人には内緒で。


ヒカルは独り言が多い。
これは、佐為がいたときの習慣が残っているからだ。小学校6年から、中学3年まで。人生のもっとも影響を受けやすい時期を、文字通り浮世離れした幽霊と一緒に過ごしたのだから、多少奇行があっても不思議ではない。
街中にいるときは多少セーブしているようだが、部屋に居る時などはモロに出る。

加賀が計画を開始した頃。
ヒカルの独り言に、加賀があいづちを打とうが打つまいが、ヒカルはたいして気にしていなかった。
加賀が返事をしてもしなくても、しゃべっていた。
「明日も雨だってさー」
「ふーん」
「俺、雨やだな」
「……」
「だってこないだ新しい靴買ったばっかりなんだぜ」
「……」
「スーツのときもズボン汚れるしさ」
「……」
「汚すとお母さんうるさいし」
「……」
「あ、コンビニよってこ」
こんな調子だ。

だが、やがて、加賀が返事をしないときに、間が生まれるようになった。
答えてくれる人がいなくて当然、だったのが、「あれ?」と思うぐらいにはなったのだ。
そして、返事がないときに、ふ、と振り向く動作、視線をこちらへ向ける動作が加わるようになった。
ここまでくれば、この計画も完了間近だ。

そして今も、ヒカルはひとりでTVを見ながらしゃべっている。
加賀は、ずっと黙ったまま。すると、ヒカルが怒った顔で振り返った。
「もう、加賀! さっきからずっと話し掛けてんだから、返事ぐらいしてよ」
「……」
加賀は黙って口角を上げる。
「だから〜、なんとか言えってば!」
ヒカルはじりじりと膝でにじりよってきて、加賀の正面に座った。
ヒカルの大きな瞳に、自分が映っている。
いい仕上がり具合だ。
これでやっと、最終目的が達成できる。

「なあ、進藤」
「なんだよ」
俺、怒ってるんだからね、という顔をしているが、少しも怖くなどない。どころか、抱きしめたい衝動をこらえるのが精一杯だ。
それでも加賀は平静を装って口を開く。
「……そろそろ、いいか?」
「なにが」
「ヒカル、って呼んでも」
ヒカルは一瞬、なにを言われたのかわからないという表情を浮かべ、次の瞬間、顔を赤くして俯いた。
「……い、いいよ」
加賀は微笑む。
返事など、聞くまでもなかった。だが、これは仕上げだから。
とても、重要な。
加賀は腕を伸ばしてヒカルを引き寄せると、今度こそ存分に抱きしめる。
「ヒカル」
耳元でささやくと、ヒカルは照れたのか、顔を加賀の肩におしつけた。
「か……加賀」
「ん?」
「俺も、て、鉄男って呼んでいい?」
思わず笑ってしまう。
「あ〜、それはどうするかなぁ」
ええー、とヒカルは不満げな声をもらす。
呼ばせてやってもいいが、どうせ照れてしまって呼べはしまい。
「ふたりっきりのときならいいぜ」
そう答えると、少し間が合って、こくり、と頷く動作が伝わってきた。

馬鹿ヒカル。
お前が俺の名前を呼ぶのと、俺がお前を名前で呼ぶのとでは意味が違うんだよ。
そう言ってやりたかったが、おそらく一生言わないだろう。

「ヒカル」
あの幽霊が、どんな声でそう呼びかけたのか、加賀には知ることもできない。自分と似ているのかいないのかも分からない。ヒカルに尋ねるつもりなど毛頭ない。
だからこそ、ヒカルが間違えようもなくなるまで。
そばにいるのが自分であることに慣れてしまうまで。
佐為には悪い気もするが、碁盤に向かっているときのヒカルは佐為のものなのだから、これぐらいは許してもらわねば、と思う。

そして今。やっと、名前を呼んでも大丈夫だと、確信できる。

「……ヒカル。お前、俺が今どれだけ嬉しいかわからないだろ」
「えー、名前を呼んだぐらいで? へんなの。加賀、そんなことを遠慮するタイプじゃないと思ったのに」
ヒカルは抱きすくめられたまま、くすくすと笑う。加賀の台詞を冗談だと思ったのかもしれない。
たしかに、気にするタイプではない。だが、ヒカルに関しては別。
加賀は腕を解くと、ヒカルの顔を両手で挟むようにする。それと察したヒカルは大人しくしている。
加賀はゆっくり唇を近づける。
そして、触れるか触れないかのところで、もう一度静かに囁いた。

ヒカル、と。


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