『Good Night』−Side M
「携帯?」
怪訝そうなムサシに、ヒル魔は「ああ」と頷く。
「どうせ学校から一緒に行くのに、携帯が必要か?」
「はぐれたときのための用心だ。貸してやるよ、コレ」
肩にかけていたスポーツバッグのなかから小さな機体を取り出して、ムサシに差し出す。
「俺が使っちまったら、テメーが困るんじゃねぇのか?」
受け取りはしたもののしまうこともできず、ムサシは掌にそれをおさめたまま、問う。
ヒル魔はあっさりと首を横に振った。
「1個ぐれー、かまわねーよ。それプリペイド式だし」
「プリペイド式?」
言葉は聞いたことがあるような気もする。たしか、料金先払いの携帯とか。もっとも、犯罪で使われることが多いというニュースで聞きかじった知識だから、あまり良い印象ではない。
そもそも、なぜ携帯を貸す、借りるという話になっているかといえば。
チーム結成のお祝いと景気づけをかねて、クリスマスボウルの決勝戦が行われる東京スタジアムに3人で行こうという提案が出たからだった。
言い出したのは栗田だが、ヒル魔もふたつ返事でOKしたから、乗り気である。この二人が行くというのであれば、ムサシに異存はない。
そして前日になって、待ち合わせその他に携帯があったほうが便利だ、と言い出したのはヒル魔だった。
3人の中で携帯を持っているのはヒル魔だけである。
「それに俺の携帯番号入れてあるから」
「ちょっと待て。使い方を教えてくれ」
初めて手にする機械にムサシはとまどうばかりである。
ちゃんと質問しないと、ヒル魔のことだから、「見りゃわかんだろ」と思っていかねない。
ヒル魔はやはりちょっと意外そうに眉を上げたが、すい、と寄ってきてムサシの手元を覗き込んだ。
「まず、開けんだろ……で、このボタンを押す。で、ここに登録してあるから、1回押して……」
ヒル魔の長い指が指し示すところを、不器用に親指で押していく。隣のボタンを押してしまいそうで、なにやら恐い。
やがて、ヒル魔の鞄の中から着信音が聞こえた。
ヒル魔はにやりと笑って自分の携帯をとりだすと、
「わかったか? 糞ジジイ」と話し掛けた。
すぐ隣と、手の中の携帯からと、ヒル魔の声が聞こえてくる。
「ああ、わかった」
まあ、明日まで覚えていればいいのだから、大丈夫だろう。
ムサシは自分の胸ポケットに滑り込ませた。
ヒル魔はそれを視線で追っていたが、ふといたずらを思いついたように、大きく口角を上げた。
「テメー、家帰ったら、もういっぺん俺んとこに電話しろ。宿題だ」
「あ?」
「ちゃんとできれば、明日も大丈夫だろ。期限は午前0時まで。それまでにかかってこなかったら、俺から電話する」
そんなことをしなくても大丈夫だと思うのだが。
「わかった」
ヒル魔が楽しそうなので、ムサシは大人しく頷いた。
とはいったものの、家に戻るとすぐムサシは家業の手伝いに借り出された。
やっと終わって一息つき、入浴、晩飯、と時間はすぎ、あとは寝るだけ、と自分の部屋にひきあげて、はっと気付けば、もう0時少し前だった。
「あぶねえ、時間過ぎるところだった」
ひとりつぶやいて携帯を取り出す。
記憶を辿りながらたどたどしくボタンを押すと、相手を呼び出している音。と、それが途切れた。
『おう、糞ジジイ』
ヒル魔の声が流れてきて、ムサシはあわてて携帯を耳に当てた。
「すまん、遅くなった」
『ぎりぎりセーフ。まあ、テメーのことだからこんなもんだと思ったけどよ』
「じゃあ、宿題は、丸だな?」
『花丸くれてやる。上出来だ』
ケケケ、と聞きなれた高笑い。
「ずいぶんハッキリ聞こえるもんだな。携帯ってのは、もっと音が悪いかと思ってた」
『いつの時代の携帯だ、そりゃ。周りがうるさきゃ、聞こえ難いには違いねぇが』
「今は自分の部屋だ」
『だろ。外なんかだと、また結構違うぜ』
「お前も部屋か?」
『ああ。ひとりだ。テメーの声もよく聞こえてる』
「そりゃ、お前はもともと耳がいいしな……」
ムサシはどちらかと言えば、電話は苦手だった。
相手の顔が見えないのが、やりずらいし、沈黙が長く続くのも気まずいからだ。
だから、長々と電話で話すことはなかったし、話さなければならないほどの用もなかった。
けれど不思議と今は、いつもの苦手意識が頭をもたげてこない。
しかし、この電話はヒル魔からの借り物なのだ。あまり長話もまずいだろう。
「じゃあ、ヒル魔……また、明日」
『……あ、……ああ』
らしくない間が、一瞬あった。返ってきた声も、ヒル魔らしからぬ、とまどいをにじませている。
「? なんだ?」
『……』
沈黙。ムサシは携帯を耳にあてがって、むこうの様子をうかがう。
『……なんでもね。おやすみ』
やけに静かに言って、ぷつり、と切れた。
ムサシは携帯を持ったまま、しばらく固まっていた。
いったい、今のはどう解釈したらいいのか。
まるで、なごりをおしむような……。
そう思い当たった途端、ムサシはボタンを押していた。
呼び出し音。
そして、通話状態になる。けれど、携帯は沈黙したままだ。
「ヒル魔……」
どうきりだせばよいかわからず、ムサシはとりあえず名前を呼ぶ。
「……明日のことで、な。あー……ちょっと聞き忘れたことが……」
とつとつと口を動かしていると、『もういい』とヒル魔がそれを遮った。
「ヒル魔」
『いい、っつってんだよ。気ぃつかわせて悪かった』
「……」
『俺は、今から寝る。テメーも、もう寝ろ』
それは嘘だろう、と思った。
ヒル魔はとても宵っぱりだ。理由のひとつはインターネットである。そして、これから1日を始めようとしているアメリカのモロモロの情報を集めるためでもある。大方の中学生にとっては就寝のこの時間、ヒル魔とって、夜ははじまったばかりだ。
ムサシはなんとか電話を切られまいと、考えをめぐらせる。
「……これから画像収集の時間じゃないのか?」
『……』
「この間見せてもらったようなヤツの」
『……いきなりナニ言い出す……』
あからさまに狼狽した声が聞こえた。
やっぱり、この手の話題は意外と苦手なのだな、とムサシは思った。
あの体育館用具室の一件の後、ヒル魔は何も言わずにムサシから静かに離れ、部屋を出て行った。
そしてそれきり、まるで何もなかったかのように振る舞っていた。いっぽうムサシからそのときのことを話題にするのも気がひけて、そのまま日にちが経過していたのだが。現在も用具室に並んでいるCDが、夢やまぼろしなどではなかったのだと証明していた。
なぜ、ヒル魔があのような行動をとったのか、今もってムサシには分からない。単なる気まぐれだったのかもしれない。ヒル魔も中学生なのだから、性的なことに関心があってもおかしくはない。
私生活のことはほとんど口にしないヒル魔が、あのような行為という形であれ、垣間見せてくれたのはうれしい気もする。
ヒル魔は即断即行の男だ。誰にも相談せず、そして責任も自分ひとりで負う。それがアタリマエと思っているのだろうが、だからといって、つらくないとは言えない。
だから。そんなことぐらい、いくらでもつきあってやる、と思うのだ。
もしかしてヒル魔が、あの件で自ら垣根のようなものを作ってしまっていたら、それこそ哀しいことだ、とも思う。
たいしたことではない。一度そう言ってやりたくて。だが、ヒル魔がまるで忘れたようにふるまうので、その機会も得えられずにいたのだ。
「いいじゃねぇか、猥談ぐらい。中学男子にはつきものだろ」
ムサシはなるべく軽い調子で言う。
『ば……っかじゃねえ』
心底呆れたような声が聞こえてきた。だが、いつものヒル魔だ。ムサシは内心で安堵する。
「こないだのはよく見なかったからな。気がついたら終わってて……」
『……』
「思い出そうとしてみたんだが……お前のことまで思い浮かんじまってな」
『……』
「そうすると、まあ、なんだ。反応しちまうんでな」
『……俺の?』
「ああ。あんときのお前の顔とか、手とか……」
言いながら、そのときのことを思い出す。というより、忘れるにも刺激的過ぎて、忘れようがないのだが。
『俺も……覚えてる』
「だろうなぁ。お前の方が記憶力はいいんだしな」
はは、と笑う。
『……今、は?』
ふと、ヒル魔がたずねた。反応してないのか、という意味だろう。
「ああ、今は……」
大丈夫、と言いかけるが、なにやら下半身が熱を持っている気がするのは、さっき思い出してしまったせいか。
『俺は……ヤバい。ムサシ……』
ぽつん、とヒル魔の声。静かな声。だが、熱のこもった声。
どくりと心臓が跳ねた。
濡れた声というのは、こういうことか。そう思う。
「ヒル魔……」
自分も熱っぽく相手の名を呼ぶ。
『ムサシ……電話、このままで……』
「ヒル魔?」
吐息が聞こえてきた。耳を澄ませば、これは、ベッドのきしむ音か。それに、衣擦れ? 気のせいだろうか。
『ムサシ……お前の、どうなってる』
「どうって……」
ムサシのそれはすでに硬くなっていたが、その状態を口にするのはさすがに抵抗がある。
ムサシが言いあぐねていると、
『たってる、か?』
直球だった。ヒル魔らしいといえば、らしい。
「ああ」
ムサシは観念して頷いた。
『そ、か。……俺の、も……ってる』
「……ヒル魔……」
ギシ、とまたスプリングのなる音が聞こえた。
それに、この息遣い。
ヒル魔がいまどういう状態なのか、想像がついた。想像だが、おそらく間違ってはいまい。
きっと、自らのものを慰めている。自らのあの指で。今、ムサシがそうしているように。
「……ヒル魔、お前の手を思い出すな。お前の指……細くて、長くて……」
ムサシは低声でささやく。興奮で声がかすれる。
『ん……もっと』
乱れた息づかいの下から、ヒル魔がねだる。もっとしゃべれ、ということだろう。
「……あんときは……ズボンの上からだったが……」
『ああ。……っ、ん……』
「……もし、直接だったら……お前の手でイクのは、どんなもんか、とか……」
『あ……あ』
ヒル魔の声は、あいづちだか、嬌声だかわからないものになりつつある。それが否が応にもムサシをあおる。
「思ったりも、する……。ヒル魔……」
『あ……?』
「お前の手は、器用だから、な。どんな風に動くのかと、思うとな……。なあ……」
『な……んだ、よ』
「どんな風に、動いてるんだ?」
今、お前の右手は。
そう尋ねれば、小さく、馬鹿っ、と返ってきた。
「男が感じるところは、大体、おんなじなんだろうが……」
たとえば……。
その器官の細かい部分の名を口にしながら、ムサシは自分の手で、その場所をなぞる。
『あ……』
携帯の向こうから鼻にかかった甘い声が聞こえたところをみると、ヒル魔も同じところをたどってみているのだろう。
「お前は? ヒル魔」
ムサシの問いに答えて、ヒル魔が、違う部分を挙げる。
『……っ、そこ、を、ゆっくり、下から上へ……。それから……』
ヒル魔の言葉のとおりに、手を動かす。
ヒル魔も同じようにしているはずだ。あの白い華奢な手で。その様を思う。
限界が近づいていた。
そう、口にすると、俺も、と返ってくる。
「一緒にイけるか?」
『んっ……、ムサシ。もっと速く……』
切れ切れに、せっぱつまったような声。激しい息遣いも聞こえる。
もっとも、ムサシとて荒く息をついて、感覚を追っている。その様子はヒル魔に伝わっているのだ。
あの金の髪を揺らし、しなやかな細身の身体を痙攣させて……。
「ああ……もう……!」
ムサシは低く唸りながら、己を解放した。
小さな機械からも、イク、と高い声が聞こえてきた。
2,3度大きく息をつきながら、これはいわゆるテレホンセックスというヤツだろうなぁ、とムサシは考えた。
「すまん、ヒル魔」始末しながら、ムサシは言う。
『……なに、が』
「この携帯、お前のだった」
『……』
少し沈黙。そのまま電話は切れた。
とんでもない長話になったが、たぶん、怒ってはいないだろう。
今度はかけなおさなかった。
了